2025年10月の月報|ハッピーバースデー30歳のわたし!

今月をひと言で表すと「ハピネス」。

“いまこのときを楽しむ”感性が育ってきたことへの喜びを、ひしひしと感じる月だった。

10月のハイライト|30歳の節目。誕生日のすごし方

高尾山山頂からの快晴の景色

10月のベストショット

今月、30歳の節目を迎えた。せっかくだからいつもとは違ったすごし方をしようとあれこれ考えた結果、向かった先は高尾山。近くにある囲炉裏焼きのお店でランチの予定だったため、ついでに高尾山にのぼろう! ということに。家族でモーニング登山が決まった。

いつぶりだろうと振り返ってみると、高尾山にのぼるのはいつも節目だと気づく。前回は就職にともなって実家を離れる前の冬、前々回は大学卒業前の夏。人生が切り替わるタイミングで、山にのぼりたくなるのだろうか。

曇天と雨の日が続いていたのが、当日は雲ひとつない快晴で浮き足立つ。あたりが陽光に照らされているだけで、世界が輝いて見えた。めでたい日のフィルター冥利につきる。

中腹までケーブルカーで向かおうと乗り場に向かうと、タイミングよく一組目だったことで、ケーブルカーの先頭に乗ることができた。中腹から山頂までは、王道コースの1号路を選択。男坂を上り始めたとき、近くにいた登山者に「段数を数えてみるといいよ、意味があるから」と教えてもらう。108の階段を上りきったとき、煩悩を断ち切れたのかスカッとした爽快感がこみあげてきた。

さらに数十分歩き進めると、遠くにうっそうと茂る木々の間から、澄んだ青が見える。ゴール地点の山頂を悟ったとき、横並びにいた妹から「どっちが先に山頂に行けるのか競争ね」と、突然勝負をふっかけられた。よーいドンの合図で力を振り絞り、ぜいぜいと息を切らしながら走り出すわたしたち。体力自慢の妹より早く山頂へと到達できて、この日一番の笑みがもれた。(あとから聞くと誕生日のわたしに遠慮して力を抜いたらしい笑)

「高尾山頂」と書かれた柱が定番の撮影ポイント。運よく誰もいなかったので、気楽に写真撮影ができた。途中「よければ撮りますよ」とありがたい申し出もあり、山を愛する人には親切な方が多いなとほっこり。奥にある展望台へと向かうと、ちょうど撮影していた人たちが引いたタイミングで、しばらくの間大パノラマを独占できた。

奥の山々から空に続く青のグラデーションを目に焼き付けるように、しばらく立ち尽くす。足の疲労感はとっくに忘れ、呼吸をするたびに内側から浄化されていく気がした。ふと何の気なしに空を見上げると、頭上の朝月と目が合った。太陽と山、月に歓迎され、祝福されているようで、じんわりとうれしさに満ちていく。この瞬間に立ち会うために、誕生日は山にのぼろうと思い立ったのかもしれない。

30歳になってなにか変わったのかと聞かれると、なにも変わっていないように思う。けれど、ちょっとしたラッキーをキャッチできるようになったな、と自覚する。高尾山にのぼったことでより確かなものになった。

運がいいな、ついてるな、と思うタイミングが増えると、自然とポジティブになれる。経済的にも物理的にも豊かであるとは言えないけれど、心の豊かさは順調に育まれている。自分なりに、いい誕生日のすごし方ができた。

じぶん観察記

2025年の金木犀はいかに

窓際から吹き込むそよ風とともに、金木犀が香るのを待ちわびていた。10月半ばになっても、なかなか生きた金木犀の香りがしないことにしびれを切らして、風の通り道に金木犀のディフューザーを置いておく。これが自分に対するちょっとした意地悪になるとは思っていなかった。

くらしのどこかで金木犀の香りがふわっと香ったとき。やっときたかとにんまりするも、この香りは仕込んでおいたディフューザーが正体だった、というだまし討ちを何度も繰り返した。無類の金木犀好きなのに、まんまとディフューザーに欺かれているのがはずかしい。よかれと思ってやったはずなのに、罠にハマってしまった被害者意識がほんの少し生まれてしまったのは、過去の自分に申し訳なくもある。ディフューザーの場所を移して、金木犀スポットをつくることでことは収まった。

「経年美化」にいいね

美容コンテンツを発信しているとあるYouTubeで出てきた言葉に胸を打たれた。経年劣化ならぬ「経年美化」。前後の文脈から、歳を重ねるごとに若返りを求める“若さがうつしさ”というステレオタイプの固定観念ではなく、“年齢に見合ううつくしさ”という意識のアップデートを感じ取れた。

30代が20代を、40代が30代を目指して美容に取り組むのではなく、いまの年齢にフィットするうつくしさを手に入れる。30歳になると笑ったときの表情じわが昔よりも増えたな、と思うが幸せの積み重ねだととらえると変わってくる。それよりも、トーンやハリととった素肌全体へのアプローチのほうがうつくしさの近道なのでは、と思うようになってきた。赤みで色ムラが激しいときを経験しているので、色ムラありなしのうつくしさ認定の差は身をもって実感している。

一方、Xでは逆行するような言葉が目に飛びこんでくる。一時期多用されていた「平成一桁ガチババア」にぐったりしていた。きっとパンチライン的な感じでライトに使っている、もしくは卑下の姿勢を見せることでこのあとに続く文言の許容ハードルを下げているんだろう。

自分に向けた言葉なら百歩譲ってまあいいか、と思えるが、他人を侮辱するために使っているポストも見かけてげんなりしてしまった。平成一桁はわたしも当事者。10代、20代から見たらおばさんだよね、とは思うけれど、わざわざ自分を蔑むために使いたくない。女性は若いからこそ価値がある、という社会から染みつけられた負のメッセージを感じてしまう。卑下しなければ、女性には自由な発言すらもできないのか、と。

こころとからだのチューニング

食後の飲み物、侮れない

「食後にコーヒー」という定石が社会通念として存在しているけれど、わたしのなかには存在しない。コーヒーはデスクワークかおやつの時間に飲むもの。食後に飲んだ試しがないからだ。ちなみに、食事の前後には水かお茶しか飲まない。

気になっているお店がある、と誘われて向かった先は羽つき餃子専門店・野方餃子。町中華のように年季のはいった店内のイメージがあったが、清潔でおしゃれに設えてある。女性客が半数以上を占めるほど、女性人気も高いようだ。

麻婆豆腐と迷った挙句、ほっこりするやさしい旨みを求めて中華粥と餃子のセットを注文。麻婆豆腐に使われているであろう、別皿にそえてある肉みそをトッピングして旨辛への味変を楽しみつつ、あっという間に完食。肉汁あふれる餃子で口周りが多少てらてらしても、中華屋では“おいしかった”のサインになるだろう。(目の前に座るのは妹なので許してほしい)

食べ終わる間際、手際よく小さなグラスがサッと差し出された。中身はスペアミントティーと案内される。ちょっと身構えつつ飲んでみると、目をかっぴらくほどおいしい。ミントと聞いて、歯磨き粉やガムのような風味かと思いきや、ハーブの心地よさを感じるすっきり、さわやかなフレーバー。スッとする清涼感というより、ハーブの恵みによる旨みを感じる。オイリーな口もとが瞬時にリセットされ、一層感動する食体験になった。

カプリチョーザでのできごともよく覚えている。食後、すぐさま退店しようとするわたしの動線に、名探偵コナンOPの歩美ちゃん(通称:ターボ歩美)のごとく現れた店員さん。何事かと思いきや、食後にはオリジナルハーブティーが提供されるという案内をいただいた。せっかくなのでまた席に戻り飲んでみると、期待を超えるおいしさ。フレーバーティーがそんなに好みではないわたしにも刺さる味。この1杯でも来てよかったと思えた。

普段、食後に飲むのは水。メインは食べ終えたんだから、飲み物は水分補給の究極体である水でいいだろうと思っていた。でも外食では違う。最後に口を整える飲み物までにも気を配られることで、食体験の満足度が高まる。終わりの1杯までがお店が提供するサービスの一環なんだと。食べ物に限らず、まだ知らないおいしい飲み物がこの世にあるんだ、と思うとわくわくしてくるのはわたしだけだろうか。

甘いものは無限に食べられると錯覚してた

早朝3時(もはや深夜)に起き、ハーフマラソン級の爆走ランニングをかます奇想天外YouTuberを最近知った。動画の主な内容は体づくりのための節制した食事内容だが、チートデーとして爆食している動画のほうをつい見てしまう。食べ放題をいいことに、飲み物かのごとく次々とスイーツが口の中に運ばれていく——ストイックな生活とは裏腹に、豪快な食べっぷりの大食漢だった。

幸せそうにケーキを食べる姿に感化され、善は急げとケーキバイキングを予約。小規模展開しているイタリアンレストランとのことで、10種類以上のケーキを店内で手づくりしているらしい。満腹中枢が働くのは食事開始から20~30分なので、スタートダッシュが肝心だ。元をとるなんて余裕、全種類制覇するぞ! と気合十分でケーキバイキングがはじまった。

一番初めに食べたショートケーキは一瞬で完食。しかし、2個目のタルトで若干の雲行きの怪しさを感じる。あれ、結構重いぞ? という不安を抑えこんで無視するも、3個目で打撃をくらった。お腹のキャパじゃない、甘さに耐えられてないのだ。ケーキが甘いなんて空が青いくらい当然だけど、決して甘すぎるわけじゃない。ケーキはそれぞれおいしくて丁寧につくられてるな、とも思う。けれど、甘みに敏感だったようで、癒やしをくれるはずの甘さがあっという間に暴力性をはらむようになっていた。

結局、3個半でギブアップ。あれだけ意気込んでいたのにたったの3個半。あまりのしょうもなさに涙が出てくる。これまで飲食店では一度も手をつけることがなかったお冷で甘みの感覚をフリーズさせ、ケーキを流し込む力技で収束させた。もちろん、元はとれてない。

車に戻って敗因を考えたとき、満腹じゃないのに食べられないという奇妙な現象が起こっていることに気づく。量的には食べられるはずなのに、体が飲みこむことを拒否していた。

そういえば、このケーキバイキングに訪れる前、フルーツサンドのお店で似たようなことがあったのを思い出す。一切れあたり、食パンを半分にしたくらいのサイズ。これが4つ。初めはおいしく食べられたのに、結局3つ目でギブアップ。甘いものは好きなはずなのに、甘みセンサーが敏感すぎるせいで拒否反応を起こしてしまうのだ。甘さは敵だ! と、体がエラーを起こしてしまったように。

ホールケーキ丸ごと食いが夢だったけれど、このままだと夢が壊れてしまいそう。甘いものは適度に、がわたしの鉄則になった。

今月のLike it

秋バラと熱帯魚

暑がりでも半袖はさすがに寒いだろう、と長袖を引っ張り出した日。まだ夏の装いを感じる街並みを横目に、神代植物公園へと向かった。お目当ては秋のバラフェスタ開催中に出店するバラの切り花。誕生日前にバラを迎えて、30歳という節目の祝福ムードを演出したい——という魂胆だ。昨年の誕生日、自分で選んだ花束を抱えたときの高揚感が忘れられない。手元にやってきた瞬間から、“なんかいい日”を演出してくれるのだ。

入園して一目散に切り花の売店へと向かうと、開園間際にもかかわらずお店には人だかりが。好きなバラを選べるとのことで、じっくり吟味してとっておきの10本を選ぶ。これで今日のミッションは達成だけど、せっかく来たのでばら園の花々も見ておこう。2年前の同じ時期に見尽くしたのと、おまけにこの日は曇天。あまり期待していなかったのが本心だった。

しかし、一瞬で手のひらを返すことになる。タイミングよく雲間から陽の光がもれ、ばら園一帯が淡く照らされる。昨晩の雨によって雨露を着飾ったバラたちがより輝いて見えた。みなぎる生命力とたくましさ、うつくしさが、鮮やかな色とハリに表れている。そよ風にのってふわっと香る濃密な色香にもほれぼれ。色も形も大きさも異なる個性豊かなバラたち。一度で見飽きるうつくしさのはずがない、と一心にアピールされた気がした。

雨露をまとう濃いピンクの秋バラ

喫茶店に行くついでにどこかおもしろいスポットはないかと探していると「熱帯環境植物館」なるものを発見。熱帯の高山植物だけではなく、ミニ水族館もあるらしい。

実は学生ぶりの水族館。当時訪れたのは、都心にある大型水族館だった。大混雑で後方の立ち見ではショーが見えず諦めかけたとき、連れの男性がおもむろにわたしの腰元を抱きかかえて持ち上げ、突然の高い高い状態になった苦い記憶がある。

そんな遠くの残像をぼんやり思い出してしまったが、簡単に上書きされるくらいこのミニ水族館には鮮烈な世界が広がっていた。会議室ほどのワンフロアに魚たちが集まるこぢんまりとしたスペースながらも、多種多様な生き物たちに観察眼が冴えわたる。

なかでも目にとまったのが、アデヤッコと呼ばれる魚。「ブルーフェイス」という別名の通り、顔が鮮やかな濃いブルー。そして目元やヒレ、しっぽのあたりがまぶしいほどのイエローに染まるバイカラーなのだ。そのほかエメラルドグリーン、パープル、ブルーの3色がグラデーションのように色づく魚も発見。こんなにもビビッドな色が自然界に存在することに感動し、ガラスのギリギリまで近づいて見入ってしまうほどだった。

どうやらわたしは、生き物が放つ鮮烈な色に惹かれるらしい。見飽きることなくじっと見つめてしまうのは、生き物としてのエナジーを感じられるからだろうか。凛と誇らしく咲くバラの立ち姿、なににもとらわれずに悠々と泳ぐ魚の姿に、勇気づけられている気がする。生き物を通して、自分を見つめ直す時間だったのだ。

アデヤッコと呼ばれる魚。別名「ブルーフェイス」

11月に向けて

10月は外出が多い月だった。自然に触れる機会が多く、わたしは植物が好きなんだと再認識。高尾山にのぼったことで、ほかの低山も気になっている。次にのぼるなら5月かな。

金木犀が静まり、すっかり寒くなってきたけど、まだ秋だと思いたい。紅葉を見ずして冬がきたなんて言わないでくれ。けれど、冬支度はきちんとしておこう。

昨年愛用していた蓄熱式の湯たんぽを大事にしまっていたのに、数カ月ぶりに引っ張りだしたらうんともすんともいわなかった。こもった空気が苦手で暖房を使いたくないわたしにマッチした、あったかグッズ。リピートしようか、それともパネルヒーターにしようか悩んでいる。

11月は体調を崩さず元気ですごすのが大前提として、適度に外に出て寒さに慣れておきたい。穴場の紅葉スポットを見つけられたら万々歳だ。